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終戦を迎え、生きて帰ることができた
元特攻隊の話がネットで話題に
なっているので紹介します。

生きて帰った特攻隊

亀岡市曽我部町に住む木内直さんは、
現在の同市千歳町の出身で、幼いころから、
パイロットに憧れていました。

亀岡農学校に進学後も空への思いは消えず、
海軍飛行予科練習生(予科練)を志願。

校長は「農学校からの受験は初めてだ」
と喜び、全校生徒の前で紹介しました。

心躍らせて鳥取県の美保海軍航空隊に
入隊したのは1943年の10月。

ですが、待っていたのはバッターと呼ばれる
「軍人精神注入棒」で尻を殴られる毎日でした。

行進がそろわない。
ハンモックを時間内につるせない。

そのたびに教官が「気合が抜けとる」と
バッターを振り下ろす。

痛みで仰向けに寝られず、
「なんでや」と忍び泣く仲間もいました。

1944年5月、1週間の休暇が与えられ、
「親兄弟に最後の別れをしてこい」と
命令が下りました。

七つボタンの予科練の制服を着て
実家に帰ると父政一さん、母ミツエさんは
驚いた様子でした。

「これが最後。もう帰れん」と伝えると、
2人の目から涙があふれました。

両親が慌てて親戚を集め、
「最後の写真」を撮りました。

配属先は鹿児島県の航空基地。

我が物顔で飛ぶ米軍爆撃機B29の編隊に
圧倒的な戦力差を感じましたが、
そんな感想は口にはできません。

出撃する特攻隊員の先輩を見送る度に
「自分も続かなくては」と気を引き締めました。

精鋭機は失われ、「赤とんぼ」と呼ばれた
複葉の練習機で夜間の実戦訓練を繰り返しました。

敵機の攻撃を避けるためだったが、
自機の位置を見失って墜落する事故が
続きました。

1945年の8月に入り、上官が言いました。

「お前が突っ込むのは20日や」。

爆弾を積んだ「赤とんぼ」を
特攻機としてあてがい、沖縄の海で
敵艦に体当たりせよとの指示でした。

「一機一艦」を掲げ、死ぬために
厳しい訓練を重ねてきました。

「覚悟しているので何も怖くはない。自分の番が来たんや、と思ったぐらいだった」

終戦はあまりにも突然でした。

「わしらが残っている。なんで負けたんや」。

仲間同士で泣きに泣きました。

意気消沈する中、両親に最後の別れを告げた
1年前の光景が頭をよぎりました。

亀岡駅でも旧友たちが涙ながらに
見送ってくれました。

「生きているのがおかしいぐらいだ。恥ずかしい」。

郷里を思うほど心が重くなりました。

夏が終わる頃、
帰るはずのなかった亀岡に着きました。

両親は木内さんを見るなり
「よう帰れた!」と声を上げました。

自分を見送った集落の人々も
帰還を喜んでくれました。

敗戦を悔やみ、生きて帰ることを
恥とばかり思っていたが、郷里の人々の
意識はまるで逆でした。

誰もが
「早いこと戦争が終わって良かった」
と感じていることに気づきました。

出典元:yahoo.co.jp

生きて帰る恥。
生きて帰ったことを喜ぶ両親。
複雑な時代背景で感じる複雑な心境。

生きて帰ってよかった。
二度と戦争のおこらない
平和な世の中が続くことを願います。

 

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